「ことばあそび私的駄洒落論」

スーパー主婦 とうこ

 私は、ダジャレが好きだ。「まったく、とうこちゃんはおやじギャグがすきなんだから。」と友達からあきれられようとも、こればかりはやめられない。食べだしたらとまらないかっぱえびせん、はまるとくせになるブルーベリーガムのようなものだ。

 私のダジャレ好きは、遺伝である。というよりも、しつけ(?)というか育てられた環境に影響されているところが大きい。何を隠そう、私の父がダジャレ好きなのだ。私が「お母さんおやつー。」とねだれば、「ほらほらほら。」と自分と母を指さして「親、ツー(TWO)。」と、さもとくいげに言ったり、折り紙で遊んでいれば「大きい紙で作るからオオカミだー。わははは。」と一人で笑っていたりする父親だったのだ。物心がつくかつかないかの内からダジャレを聞かされて、子供心に(おお、かみよ)と祈ったかどうかはさだかではないが、そんな父にかなり影響されたことは確かである。ダジャレなんてくだらないわ、という思春期の頃もあることはあったが、今では一日に一つはダジャレを言ってしまうダジャレ好きになってしまった。

 そこで、そんな私の生活に欠かすことの出来ない、「ダジャレ」って一体なんだろう、とあれこれ考えてみた。

 集英社の国語辞典(机上版)によると

@ つまらない低級なしゃれ A 同音語・類音語による掛けことば自体を目的とすることば遊び。と書いてある。「低級」と書かれてしまうと、われながら情けなくなってくるが、「つまらない」のがダジャレなんだよ、と開き直る気分にもなってくる。

 「ダジャレ」と言うにはあまりにもおこがましく、おしやれでスマートなしゃれたことば遊びの達人と言えば、井上ひさし、谷川俊太郎を思い出す。中でも谷川俊太郎のことば遊びは、子どもたちの間でも詩集や絵本などでよく知られている。私が小学校の先生をしていたときも、谷川俊太郎の詩は子どもたちに人気があった。ここで、子どもたちも大好きな詩、「かっぱ」を紹介しよう。



かっぱ

            谷川俊太郎


かっぱかっぱらった

かっぱらったかっぱらった

とってちってた


かっぱなっぱかった

かっぱなっぱいっぱかった

かってきってくった

(『ことばあそびうた』福音館書店より引用)

 ことば遊びのおもしろさに惹かれて、子どもたちはこの詩を好んで読んでいた。私も「かっぱのらっぱ」「かっぱのなっぱ」、あるいは「かっぱのかっぱ」「かっぱのはっぱ」、「タッパー」、「ジッパー」くらいなら思いつくが、そんな楽しく素敵な詩などはとうてい作れない。そこが「プロの詩人」と「単なるダジャレ好き」の違いだろう。

 私なりの構造的ダジャレベルには、初級[同音語がある]と、上級[同音語があり異音語の母音が同じ、あるいは語数が同じ]がある。たとえば、「かっぱのなっぱ」は「っぱ」の部分で同音で、さらに「か(ka)」と「な(na)」の母音が同じなので、上級である。それと比べて「かっぱのジッパー」は「ジ(ji)」の母音が違っているし、語尾をのばすところが違っているので、初級レベルである。

 しかしながら、ダジャレにおいて重要なのは構造的レベルよりも、質的レベルである。つまり、どれだけ面白いかという事である。「かっぱのなっぱ」というダジャレからは、かっぱが菜っぱを持っているところくらいしか想像できないが、「かっぱのジッパー」からは、かっぱの形のジッパーかしら、それともかっぱのズボンのジッパーかしら、それともかっぱの背中にジッパーが着いていてそこから何か違う生き物が出てきたりして・・・などと想像がつきない。だから、質的ダジャレでは「かっぱのジッパー」の方が上級だ。(質的ダジャレベルは主観的なものなので、「かっぱの菜っぱの方が面白い。」という人がいても全くかまわない。)

 ダジャレはしゃれとしては低級かもしれないが、社会的に果たす役割もあるのだ。たとえば、ダジャレで相手との信頼関係が分かる。安心してダジャレを言えるようになるには、互いの信頼関係がしっかりしていなければならない。よく知りもしない、あるいは信頼されていない相手にダジャレをいったりすると、(この人は大丈夫かしら)と不安を与えたり、(なに言ってんのよ、バーカ)と思われたりするので注意が必要だ。

 また、ダジャレのオチには「かっぱのラッパ。なんちゃって。」と言ったような自己完結型と、「カッパ、あープップクプーって吹くやつね。」「それはラッパやー。」といったような他者つっこみ型があるが、後者が言える相手とは、より信頼関係が深いといえる。

 日常的に目にするものといえば、商品名としてのダジャレだ。「メクール」「トレール」「ツクール」「沸くわくお風呂センサー」「もえ炉」などなど、世の中にはダジャレ好きが大勢いるもんだと思わずにはいられない。

 ダジャレを考えると頭の体操にもなるし、ことばに対する感覚も磨かれる。ダジャレも結構人の役に立っているのだ。

 このように、ダジャレについて論理的にかつアカデミックに考えてみたが、これほど熱く語るとは、私のダジャレ好きもかなりのものだ、ということがつくづく分かった。ダジャレについてはまだまだ語り尽くせないが、ダジャレはことば遊び、遊びなんだからやっている本人が楽しければいいや(周りも楽しくなればもっといいけど)、というところでこの文章を終わりにしよう。…しよう、しようのびようのひようをりようしてみよう。へんなダジャレをいっているのはダレジャ。かんべんしてくだジャレー。・・・おそまつ。